Unfinished (Earth)

 

2025年末、米民間企業アストロボティック・テクノロジーズが開発した月着陸船「グリフィン(Griffin)」が、スペースXのファルコン・ヘビー・ロケットによって、フロリダ州ケネディ宇宙センターから打ち上げられる。この着陸船には、四輪駆動の探査ローバー「FLIP(FLEX Lunar Innovation Platform)」が搭載されており、ローバーは着陸船の上部からゆっくりと月面へ降下する。その後、月の南極付近を目指して単独で移動し、探査活動を行う。なお、着陸船もローバーも片道設計のため、地球に帰還する手段は備えていない。

この探査ローバーの中には、人類が過去50年にわたり宇宙から撮影してきた地球の写真9点を収めた、小さなアートプロジェクトが収められている。これらの写真には、アポロ宇宙飛行士が月面や月軌道から撮影したものに加え、さらに遠い宇宙から捉えられたものも含まれている。それぞれの写真は、その時代ごとに、私たち人類の「自己認識」に揺さぶりと感動をもたらしてきた。それは、単なる惑星の記録ではなく、広大な宇宙のなかで「生」がいかに儚く、脆く、そして奇跡的であるかを物語る証でもある。

今回、それらの写真は、かつて米ソ冷戦時代にスパイフィルムとして使用された極小の媒体に複写され、月へと運ばれる。人の手によってつくられ、人の目に触れ、かつて大切にされた地球の姿は、今度は誰にも見られることなく、触れられることもないまま、月の静かな地にそっと置かれる。そして、感光乳剤に焼き付けられたその像は、誰にも気づかれぬまま、月面で静かに、時間とともにゆっくりと劣化していく。たとえ地球上であっても、フィルムが像を永遠に保ち続けることはできない。ましてや、−173℃から127℃という過酷な温度差にさらされる月面では、像を構成する化学的な結びつきは、さらに速く壊れていくだろう。

これらの写真はかつて、地球を「あるがままに」映し出した。無限の闇に浮かぶ、小さく青白い、孤独な点として。私たちの世界が壊れうること、そしてその青さが思っている以上に脆く、一瞬であることを教えてくれた。しかし、約50年の月日が経過した今、その写真がもたらした意味は、私たちの記憶の中で徐々に失われつつある。これらの写真の意味は、「何が映っているか」だけで決まるものではない。私たちがそこに「何を見ようとするのか、あるいは見まいとするのか」によって形作られていく。

月に残されたフィルムは、やがて地球の姿を忘れてしまうだろう。では、私たち地球の人類はどうだろうか。

Nobile Crater

Griffin One is scheduled to land on the west rim of the crater in late 2025.

フィルムに記録された地球の写真は、月へ旅立つ前に、暗室で一筋の光に貫かれ、一瞬の露光によって印画紙に焼き付けられる。こうして生まれたプリントは、最初にして最後のかたちとして、9枚ずつ6組、計54枚が作られ、地球に残される。各セットは、人類が関わりを持つ6つの大陸(アフリカ、アメリカ、アジア、ヨーロッパ、オセアニア、南極)へと託される。これらのプリントは、フィルムにその存在を負い、遠く月へ去った親の記憶を宿す子どものように、私たちがその記憶を心に刻む限り、静かに、しかし確かに響き続ける。

月面に運ばれたフィルムは、誰の手にも触れられず、誰の目にも見られることなく、静かに色褪せ、やがてその像は消えていく。一方、地球に残されたプリントは、フィルムから生まれた微かな残像として、6つの大陸に散らばる。少しずつ色褪せながらも、100年、200年、あるいはそれ以上、残り続けるかもしれない。けれど、プリントの真の命は、物質そのものに宿るのではないと僕は思う。写真が手元にあろうとなかろうと、その本質は、人類が物語を受け継ぎ、未来を生きる人々が地球という場所に見出す「意味」の中にある。

私たちがその存在を忘れない限り、地球の姿は、記憶と物語を通じて、時を超えて響き続ける。


宇宙でアートプロジェクトをする意味


宇宙で芸術を行うこと。それは、科学や技術の極限に、人間の感覚や記憶、願いのようなものを、静かに添える行為だと考えています。無人で無音の空間に、かすかな人類の痕跡を残すこと。それは「私たちはここにいた」と伝えると同時に、遥か未来や他者に向かって「あなたはそこにいますか?」と問いかけるような営みでもあります。

これまでにも、作品を宇宙や月に届けたアーティストはいました。しかし多くの場合、「作品が宇宙に行った」という事実の提示にとどまり、その過程や空間が作品の本質をどう変えたのかまでは、深く問われていません。私自身が宇宙との直接的な関わりを持ち始めた2020年以降、ひとつの考えがずっと頭から離れません。それは──発射台に据えられたロケットの中にある段階では、それはまだ作品ではない、ということ。宇宙に行くことで初めて、何かが変わり、それが芸術になる。もし本当に宇宙に作品を送り出すのなら、その「変化」自体を内包する表現を考えなければならないと感じています。

地球の外へ作品を送ることは、未来へと開かれるジェスチャーであると同時に、過去の記憶や文化を異なる時間軸に託すことでもあります。すべてが浮遊する無重力の環境で、重みのあるものをどう伝えるか。地球とは異なる物理と認識の条件下で、人間の営みはどう残り、どう読まれるのか。その問い自体が、私にとっての芸術の場になっています。宇宙という極端な遠さのなかで、人間という存在の輪郭が、鏡(作品)を通してむしろはっきりと立ち上がってくる気がします。