Nothing, Something, Everything

 
 

Sojourner 2020」は、ミッション期間中に何度か日本の上空を通過した。

ある晩、神戸に住む母が、父と一緒に見たことを知らせてくれた。

「国際宇宙ステーションが、あなたが教えてくれた方角に、ちょうど3分間だけ空に現れました。思っていたよりもずっと速く移動していて、想像していたよりも大きく、そして明るかったです。今夜、お父さんと一緒にバルコニーから眺めました。あなたは(COVID-19のロックダウンで)家から出られないけれど、私たちも同じ理由で家の中にいます。でも、私たちには共有できる光る星があると思うと、涙がこぼれました。また明日の夜も、空を見上げて探してみます。」

このメッセージを、ニューヨーク・アストリアの小さなアパートで読んだとき、私はひとりで静かに涙を流した。

 

地球, 環境問題, そして僕

 

Grand mother, older brother and me in 1983

僕は1983年に日本で生まれた。父親の仕事の関係で出生地こそ東京になってはいるが、本当は島根県大田市の小さな病院で生まれた。母方の祖父母は農家で、静間という小さな町に暮らしていた。静間は文字通り、静かで穏やかな場所だった。地上は見渡す限り田園風景で、頭上には空しかない。外灯は間隔が異常にひろくて、夜は懐中電灯が必需品になる。近くの駅には一時間に一本程度電車がやってくる。祖母は路線が電化されてからもずっとそれを「汽車」とよんでいた。近所の人は皆顔見知りだったし、玄関に鍵がかかっていた記憶もない。水道も通っていたし、冷蔵庫もあった。だけどお風呂は五右衛門ぶろで、祖母が下で薪を焚べながら絶妙な温度調整をしてくれていた。お手洗いの様式は、だいたい想像の通りである。

小学生時代を川崎で過ごした僕にとって、夏休みに静間へ行くのはちょっとした楽しみで自慢だった。祖父母は決して裕福とはいえなかったし、たくさんの苦労が刻み込まれたシワがいっぱいあったのを覚えている。だけど少なくとも、本当に必要最低限なものだけを持ちながら質素に、平凡に、それなりに幸せに生きていた気がする。僕が子供の頃、家は既に築100年以上経過していたから、くたびれた箇所もあったけれど(ごめん。障子に穴を開けたのは僕だ)、夏は窓を全開にして空気の通り道を作り縁側に腰掛けてスイカをかじった。冬は掘りごたつを囲んでみかんを食べながら家族みんなで過ごした。野菜は畑から採れたし、お米も育てていた。そこに冷蔵庫、炊飯器、古い透き通った青い羽の扇風機、小さなブラウン管テレビだとか現代的なアイテムが何点かだけ加わって、それに見合う平凡な生活がそこにはあった。僕と兄は海で泳いだり、三瓶山に行ったり、用水路でザリガニを捕まえたりして遊んだ。そして石見銀山の町、大森にも時々遊びに行った。毎年夏休みが終わって都会に戻るのが僕は嫌いだった。あまりにも自然から離れた気がして、寂しくなったからだ。

 
 

僕の幼少時がどんな風であったか、説明するのに大分遠回りをしたかもしれない。ある人は僕が感傷に浸っていると言うかもしれない。だけど僕がここで言おうとしているのは、現代社会がどれほど自然と乖離してしまったかということだ。1983年生まれの僕の幼少期には、田舎にもそして都会にも、自然との接点がまだたくさんあったと思う。公園の砂場には子供がたくさんいたし、木登りをして怪我をするのも日常茶飯事だった。空き地がたくさんあったからバッタやカマキリも捕まえたし、秘密基地も作った。泥遊びも水遊びも、時にはこっそり火遊びもした。遊びだけじゃない。生活も、もっと全てが自然のそばにあったように思う。

環境学者が気候変動について話す時、彼らは二酸化炭素濃度の上昇、温度上昇、北極海の海氷、水位上昇、また最近は気候変動が引き起こす自然災害について話す。どれも個人の手には追えないような規模の話に聞こえる。そして気候変動はいつからか、政府間だけの問題であるかのようになってしまったように思う。だけど実際はどうだろうか。僕たちがいま生きて、現代的な生活を送っていることに、ライフスタイルに見直すべき箇所はないのだろうか。

人間、僕たちひとりひとりの存在は、生態系、そして気候変動に少なからず影響を与えている。自分が住んでいる場所、自分が食べているもの、自分が買うもの、自分が使うもの、自分が働いている会社や仕事、自分が選ぶ政治家、全ての選択が直接的か間接的に気候変動や環境問題に複雑に絡み合っている。だからそのひとつひとつの選択に、僕たちはもっと慎重である必要があると思う。大量生産と大量消費で商品の価格は確かに下がる。そのぶん出費が少なくて済むのは正直助かる。だけど少量生産で少し価格は高いけれど、もっと環境に優しいものだって世の中にはある。ただきっと、消費者が自ら意識的に努力して考えることを始めないと、広告代理店から出てくるプロパガンダ戦略に僕たちは簡単に飲み込まれてしまう。つまり全ての物事は複雑に絡み合っているということを、僕たちは意識して生活する必要があると思う。

※プロパガンダ=特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為の事。

僕は祖父母が暮らしたような質素な生活を推奨しているわけではない。2020年には、現代にふさわしい生き方があるべきだと思う。ただ自身の消費行動について、少し考えてみて欲しいと思う。僕は完全で世界的な行動変化がすぐに達成できるとは思っていない。だけど不要な無駄遣いや、不要な悲しみは無くすことができると信じている。

 

昨年の夏、僕がSojournerのアイディアを整理していたころ、義理の姉のお腹には赤ん坊がいた。その子供のおかげで、僕がMITメディア・ラボに選考のために提出したプロポーザルの内容は約15分で考えることができた。自分の中にあったアイディアとアイディアが彼の存在によって結びついたからだ。そこから何時間もかけて細かい調整を加えながら、言葉を磨き上げていった。

その頃僕は、その子が生まれてくる世界を想像しながら、自分がどう生きたいか、アーティストとして何を成し遂げたいか、考えていた時期だった。2020年、Sojournerに乗せて僕が宇宙に送り出したのは、僕の甥や彼と同じ世代、それに続く世代が、喜びと幸せにつつまれながら、安全な環境で成長していける世界への夢と希望だった。そして地球に帰還した作品には、これからもそのメッセージを持ち続けて欲しいと願っている。

司馬遼太郎が生前に書いた「21世紀を生きる君たちへ」というエッセイをご存知だろうか。自然と人間と社会の関わりについて、21世紀の世界を生きるこども達に向けて書かれている。1923年生まれの司馬は、戦争、そして戦後と、激動の20世紀を自ら体験してきた。また日本と世界の歴史の中に、絶望と希望の数々を見てきた人のように思う。

「君たち。君たちはつねに晴れ上がった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。私は、君たちの心の中のもっとも美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のように輝いているように感じた。」

彼が未来を生きる子供たちに向けて使った「真夏の太陽」という言葉が、ここ数年僕にはずっしり重くのしかかっている。司馬は未来に希望を捨てなかった。大人が皆、自分たちがいなくなったあとの、次の世紀を生きる子供たちの未来を想像することができたら、世の中は少しづついい方向に向かうに違いないと僕は信じている。だから、どんな未来になっていて欲しいかを想像することを僕たちはやめてはいけない。

ここ数年間、気候変動が自分自身の問題だと人に感じてもらうためには、何をすべきかとずっと考えてきた。それから僕が生まれた1983年の資料を集めている。自分が生まれてからの37年間に、地球にどのような変化があったのか見てみようと思ったからである。今ここに生きている僕、そして僕たちの存在が環境にどれだけの影響を与えてきたか、一度見てみることにした。自分の前に状況を提示されて、それでもまだ環境問題は自分には関係がないと言う人がいたら、なぜそう思うのか一緒に考えてみることにようじゃないか。自分たちひとりひとりにできることは小さすぎると僕らは思ってはいないだろうか。いやそれは違う。何かを変えることもできるし、世の中や政府に対して、変化を求めるために声を出すことは自分たちにだってできるはずだ。

僕は過去約8年間をニューヨークで暮らしている。その僕が何か日本の状況について人に話すことはできない。だけどこの街に住んで、アメリカとヨーロッパの間で日々仕事や生活をしていると、気候変動について若い世代が活発に動き出しているのをよく目にする。学校ストライキで有名なスウェーデンの活動家、グレタ・トゥーンベリはよく知られるところだろう。最近一番印象的だったのは、ワシントン大行進の集会演説でキング牧師の孫がブラック・ライヴズ・マターについて演説する中、その子が「私たちの世代がクライメート・チェンジ(気候変動)を止めて、地球を守る世代になるんだ」と、環境問題に触れたことだった。人種差別の無くならない世界に立ち向かう強い意志を示した彼女が、そのような大切な場で気候変動にも言及したのである。このように、現代の子供たちの中にもたくさんの希望を見出すことができる。だが本当に、彼女たちと一緒になって一番動き出さなくてはならないのは、僕たち大人ではないだろうか。この地球上で生活している全ての人間である。もしかしたら子供たちの未来という考えを大人が持つことは間違っているのかもしれないと最近よく思う。僕たちひとりひとりの未来が、世界そして地球の未来でもあることを僕たちは絶対に忘れてはいけない。